南方録から抜粋した千利休の名言集と現代語訳
・水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶をたてて、仏にそなえ、人にもほどこし、吾(われ)も飲む
[訳]
水を運び、薪をとってきて湯をわかし、茶をたてます。
たてた茶を仏様にお供えし、客に飲ませ、自分も飲みます。
それが茶の湯です。
・家居の結構、食事の珍味を楽しみとするは俗世のことなり。
家はもらぬほど、食事は餓えぬほどにてたることなり
[訳]
建物の立派さや食事の珍味を茶の湯の楽しみだと思うのは俗世間のことです。
家は雨がもらなければよく、食事は餓えぬほどあれば十分です。
・野がけは、就中(なかんずく)、その土地のいさぎよき所にてすべし。
~手わざ諸具ともに定法なし。
定法なきがゆえに、定法、大法あり。
[訳]
狩りのときの野点はことにその土地の清らかな所ですべきです。
=そのときは点前の型も道具のきまりも役に立ちません。
逆に定まったきまりがないからこそ、定法が、さらに大法というべきものが必要となるのです。
・世上の人々そこの山かしこの森の花が、いついつさくべきかと、あけ暮外にもとめて、かの花紅葉も我心にあることをしらず。
ただ目に見ゆる色ばかりを楽しむなり。
[訳]
世の中の人びとはどこの山、かしこの森の桜がいつ咲くだろうかと、明けても暮れても外に探し求めて、真の花、紅葉が自分の心のなかにあることを知らない。
ただ目に見える、形ある世界ばかりを楽しんでいます。
・夏はいかにも涼しきように、冬はいかにも暖かなるように、炭は湯のわくように、茶は服のよきように、これにて秘事はすみ候。
[訳]
夏はいかにも涼しいように、冬はいかにも暖かなるように。
炭は湯のわくように、茶は飲みかげんがよいように。
これが茶の湯の秘事のすべてです。
・いかにも互いの心にかなうがよし。
しかれども、かないたがるは悪しし
[訳]
いかにもお互いの心にかなうのがよいことです。
しかし、だからといってかなうように迎合するのはよくありません。
・音楽の拍子にも、拍子に合うはよくして、拍子にあたるは下手の楽なりとかや、楽人の秘書にそれを峯ズリノ足というとなり
[訳]
雅楽の拍子でも、舞いが楽器の拍子と一体となるのはよいけれど、拍子にぴたりと合ってしまうのは下手の舞いであるとかいうことです。
楽人の秘伝書にそのことを「峯ずりの足」という、とあります。
・真より入(い)り、草より入り、行より入り、仮名より入る、その入るところかわれども奥義は同一なり
[訳]
書道の稽古でも楷書から入る法、草書から入る法、行書から入る法、仮名から入る法、その入り方はかわるとしても、その奥義は同一です。
・小座敷の料理は、汁一つ、菜二つか、三つか、酒もかろくすべし。
わび座敷の料理だて不相応なり
[訳]
わび茶の小座敷の料理は汁一種にお菜が二つか三つ、酒も軽くすること、わび座敷にいかにも結構な料理ぶったことはふさわしくありません。
・露地(ろじ)にて亭主の初の所作に水を運び、客も初の所作に手水をつかう。
これ露地、草庵の大本なり。
この露地に問い問わるる人、たがいに世塵のけがれをすすぐための手水ばちなり
[訳]
露地で亭主が最初にすることとして水を運び、客も最初にすることとして手水をつかう。
これが露地、わび草庵の茶の一番大切なところです。
この露地に相手を訪ね、またそれを迎える人が、お互いに俗世のけがれをすすぐための手水鉢なのです
・易云(えきいわく)、暁会(あかつきのかい)、夜会、腰掛に行灯を置くべし、~手燭(てしょく)持ち出る人もあれども、風ふく夜など別して難儀のものなり。
ことに殊勝げなくあざやか過ぎてあしし
[訳]
利休がいうに、「暁の会や夜会では腰掛に行灯(あんどん)を置くべきである。
~手燭を持ち出す人もいるけれど、風が吹く夜などは、特に厄介なものである。
ことに奥ゆかしさがなくてはっきり見えすぎて悪い。
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